ボデガ パソス ラルゴス

作り手:マヌエル・ロペス・ドミンゲス

世界を旅し、夢の実現の為に故郷に戻った男

  自分の人生で夢を一回でも実現できれば、それは、幸運な事だと思います。夢を三回も実現できたら、幸福な人生だと言えるのではないでしょうか?ワイナリー パソス・ラルゴスの作り手、マヌエル・ロペス・ドミンゲスは、それを実現してきた人です。

 友人から親しみを込めて“マヌ”と呼ばれるマヌエルは、アンダルシアの街ロンダでは、有名人です。彼は、昔からワイン作りに興味を持っていたわけではなく、若い頃は、フラメンコのギタリストとして世界中を演奏旅行していました。

「ギターを弾くきっかけは、大きな事故だったんだ。6歳の時、海辺でくすぶっている焚き火の中に転んで、手にひどいやけどを負ったんだ。僕は、指の皮膚を全部失ってしまい、長い間入院した。病院の先生は、指が全部くっついてしまう事を恐れて、指を動かし続けるようにと言って、そのためにギターでも勉強してはどうかと勧めてくれたんだ。先生の言う通りにギターを弾き始めたのが、僕がギターを弾くようになったきっかけなんだ。幸いな事に、その後、皮膚は戻ってきて、やけど跡もなくなり、故意症も残らなかった。しかも、このやけどがきっかけで、ギターの才能を見出す事ができた。そして、色々な国で演奏旅行に行き、世界を知ることができたんだ。事故が僕の人生を大きく変えてくれたと言えるんだ。」

 第2の人生のスタート

  山に囲まれた静かなスペインの小さな街で育った10代の若者にとって、家族を離れ、外国でのフラメンコ演奏の旅に出るのは、勇気のいる事でしたが、マヌは、その機会を大喜びで受け入れました。

「その頃、ロンダの街の人たちはみんな、ロンダが世界の中心だと本気で信じている様に僕には見えた。当時は、少し生意気で、自分の街がいつも一番だとは限らないと、よく言ってたのを覚えている。ロンダは美しく、歴史もあるし、生まれ育った街だから、大好きだったけど、ほかの国の文化、芸術、技術を自分で体験して、色んな人達から、何かを学ぶことは、とても大切な事だと思っていたんだ。僕は、不幸中の幸いで、ギターを弾くようになったおかげで、めったにないチャンスが得られて、色々な国を見て回る事ができた。」

  成人した18歳(スペインでは18歳が成人です)、マヌは、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、日本、アフリカの国々へフラメンコ演奏の旅に出ました。

 「僕は、十代で、色々な国を周り、色々な人々、それぞれの国の美しさ、文化、美味しい料理等を通じて多くの驚きを経験が出来た事に、ものすごく感謝しているんだ。この経験ができたおかげで、今の自分があるんだと思っている。アンダルシアの小さな街で育った若者が、東京の様な大都会でフラメンコギターを演奏する事は、どんなにエキサイティングな事かわかってくれるかな?僕にとっては、本当に楽しくて、刺激的な経験で、僕の目を開かせてくれた経験だったんだ。」

 20代に入り、マヌは故郷ロンダに戻り、人生の第二の挑戦を開始しました。父親と一緒にレストラン「トラガブヘス」をオープンさせたのです。このレストランは、その後、ロンダで初のミシュラン星を取得したレストランとなり、成功を収めます。「このレストラン経営がきっかけで、僕はワインの世界に少しづつのめり込んでいくようになったんだ」と、自分のワイン畑でを見渡しながら、マヌは話してくれました。周りには、ロンダの目を見張るような崖の光景が広がっています。「僕の実家は、昔からロンダで色々なレストラン経営してきたんだけど、このレストランは大成功でした。ミシュランの星を採ったという事もあり、英国首相だったトニー・ブレアや国連議長コフィー・アナンみたいな方にも来てもらえた。でも、何よりも、世界中のワインを味わう機会を得られた事が、僕の人生をまた変える事になったんだ。」とマヌ。「でも、ミシュラン星のレストランを経営するのは、本当に大変だった。これは、想像する以上に、本当にもの凄く大変な事なんだ。一日24時間、週7日みたいな仕事で、自分の趣味どころか、家族のための時間すらほとんどなしで働いた。そうやって働いていると、次第に僕は、自然の中に戻りたくてしかたなくなっていったんだ。」

 マヌがやろうと思うことは、全部実現可能に思える

  そして、1998年、マヌは、第三の人生に足を踏み入れました。ロンダ ワイン作り復活の祖であるヴェタスをエノログに迎え、ロンダでワイナリーを立ち上げたのです。ロンダのワイン作り復活のパイオニアの一人として、彼らは、ワイン作りの道を切り開きました。「まずはワイン作りを始めるための土地が必要だった。僕らは、幸運な事に、ロンダでは、わずかしか残っていなかったブドウ畑を見つけたんだ。」マヌは、ワインの醸造所とそこに隣接する土地でプチホテルの建設に着手しました。

 2002年、彼はプチホテル「ジュンカル」をオープンさせます。ロンダの建築家で、ワイナリーデスカルソス・ビエホスの作り手でもあるフラヴィオが建築を、フラヴィオの妻がインテリアデザインを手がけました。「ここのワインコミュニティは密接なんだ。みんなが助け合う。ブドウのツルみたいに、僕らは絡まっているんだよ。」と、マヌは笑顔で語ります。

  彼が手がけたレストラン同様、ホテルも大成功しました。世界のトップホテル25のひとつに選ばれたこともあります。しかし、2009年、リーマンショックでスペイン経済は大きな打撃を受けました。アンダルシアに与えた打撃はとりわけひどく、最も重要な産業である観光業は激減し、マヌはレストランとホテルの閉鎖に追い込まれました。「でも僕は、レストランとホテルの閉鎖を悲劇だとは受け止めなかった。僕はひとつの決断の時期が来たんだと思ったんだ」とマヌ。「当時は、レストランとホテル経営に心身共に疲れ切っていて、ワイン作りに全てを集中したいと思っていた。だから、レストランとホテルの閉鎖は、この決断をするきっかけを作ってくれたんだと思っているんだ。」

 今、マヌは、パソス・ラルゴスでのワイン作りに専念しています。「僕は、ようやく色々な事から自由になれ、自分にとって本当に進むべき道を見つけたと感じているんだ。音楽から食へ、そしてワイン作りへと移行していく中で、すごく沢山のことを学ぶことができた」と彼は言う。「今、僕はとても幸を感じている。田舎が好きだし、色々な人達が僕が作るワインを楽しんでくれている。僕は、やっと自分が本当に選んだ人生を生き始めたと感じている。これ以上に望むことなんかないよ。」

 話している間も、マヌは常にブドウをチェックし、枯れた葉っぱを捨てたり、緩んだツルを直したりしています。「ワインの質は、畑で決まる。醸造の過程以上にブドウの質が重要なんだ。ここでは、全部が手作業。僕は毎日ここに来るけれど、同じ日は1日もないんだよ。同じように四季が繰り返されると普通の人は思っているけど、そうじゃないんだ。毎年、そして毎日同じことが自然界で繰り返される事はないんだ。毎日が少しづつ違うんだ。もう少しワイン畑を拡大することも計画しているけど、でも、ちょっとだけね。将来は、テンプラニーリョとロゼも作りたいと思っているんだけど、ブドウの質を保つ事がまず第一なんで、畑を大きくしすぎることだけは、絶対にやらない。もしかしたら、いつか、自分の土地からオリーブオイルを作ったりしたりするかもしれませんけど。」と微笑みました。マヌだったら、全部実現できるはずだと思いました。

  パソス・ラルゴスの現在のワイン年間生産量はたったの3万本です。そして、赤ワインしか作っていません。今では、ワインが家業。彼の娘たちは明らかに父の影響を受け、同じ道に進もうと考えているようです。ひとりは観光産業に勤務し、3ヶ国語を話します。一番下の娘は、腫瘍学と化学を学んでいるところ。「一番下の子は、幼い時から木箱に上って、ブドウを仕分ける作業の手伝いなんかを進んでやってくれた。彼女にとって、ワイン作りは人生の一部なんだ。彼女は醸造の技術的な部分も好きみたいで、勉強してくれているんだ。正直言うと、僕は女性のほうがワインに対する嗅覚も優れていると思っているんだ。」

 彼は、ワイン作りへのアプローチや、この土地への愛についても語ってくれました。「ワイン作りが環境にやさしいかどうかは、ボトルに記載する印や賞じゃなくて、作り手の心と頭で決まりる。僕が求めるのは、美味しいワイン、そして、自分で納得できる、自然な有機栽培で作ったという事実なんだ。自分が僕のワインの事を世界で一番理解している。何回も、何回も自分のワインの出来栄えを試し、自分のワインに何が必要かを常に考えているんだ。」

 幸せな人とは多くを持つ人ではなく、必要とするものが少ない人だ

  音楽、食、ワインを通じて、マヌは、人々に喜びを与える努力をし、仕事に情熱を捧げてきました。そして、彼自身も、ブドウに囲まれた土地に自分のに幸せを見つけました。「ようやく最近自分の時間を持てるようになった。テニスとか、スキーをしながら家族と一緒に過ごしたり、自然の中でゆっくりとした時の流れを楽しんだり。」と、彼は、2008年物のフラッグシップ的なワイン「パスソス ラルゴス」をもう一杯、彼の畑で私のために注ぎながら、笑顔を見せます。世界中を旅して、最後に、自分が求めるものは、実は足元の地面にあった事を発見した人が見せる微笑みです。

「ロンダでは、「幸せな人とは多くを持つ人ではなく、必要とするものが少ない人だ」、と昔から言われるんだけど、それがまさに真実だという事が、今やっと僕にはわかった気がするんだ」。